<ドラマー高橋浩司50歳記念>全人生50年を振り返る渾身のロングインタビュー③バンド「REVERSLOW」「HARISS」期

ツアーを組んで、最後はフジロックで解散したい

高橋)その時には事務所とも離れて自分たち3人でやってて、フジロックのブッキングが、今では良くあると思うんですけど、バンドの連絡先が事務所ではなくメンバー宛っていうのが当時では珍しい状態で。
でも、全部自分たちだけで出来るって分かったから事務所がなくても大丈夫だってなったんですよ。
自分たちでツアーを30本くらい組んで、全箇所に対バン入れて、全箇所でブッキングとか連絡して、タイムテーブルを決めてって死にそうになりました。
みんな仕事をしながらだったから。

そして作品を出したいってなったときに、吉本興業が音楽事業をやっていて、そこが一緒にやりたいって言ってくれたんです。
PEALOUTの最終は吉本興業なんですよね。
吉本興業のRandCってレコード会社から結果的にラストアルバムを出しました。

3人で作品を作るって姿勢で来たから、近藤くんが書いてきた歌詞もメンバー2人がが納得しないとOKにならない。
だから書いた近藤くんからするととても窮屈な状況でやってたと思うんです。

近藤くんが書いてきた歌詞に「これはちょっとやだな」って思ったら、近藤くんが全部書き直してきて、今思えば申し訳ないって思うんですけど、その時は「歌詞=バンドの言葉」だから、全員が思っていないことを言い出すわけにはいかないって思ってて。
近藤くんからしたら、書きたい歌詞が書けない状態で、歌詞を書く時に俺たち2人に気に入られなきゃって思うようになってきちゃってたんだろうなって。

それで最後は近藤くんから「自分のやりたい事をやりたい」って言われて、俺たちも彼を追い詰めてる感じはすごくあったから「近藤くんが出来ないんだったら辞めよう」ってなって解散を決めました。

アルバムを出してから解散ってことにはなったんですけど、でもここまで作ったんだったら全国のファンにありがとうを言いたかったんですね。
それがアルバムを出したのが2004年だったかな。2005年にツアーを組んで、最後はフジロックで解散したいってなって、そのツアーをサポートしてくれたイベンターがSMASHだったので、お願いをして実現してもらいました。

すごく覚えているのが、北海道地区のイベンターはWESSだったのが途中からSMASH EASTに移ったんですけど、ラストツアーはどちらもやりたいって言ってくれて。
SMASH EAST主催なのに、WESSの人が手伝いに来てくれたりして。

森)それは珍しい!

高橋)解散の最後の1年で「PEALOUTってちゃんとやれてたんだな」って思えた。
解散までの1年間で自分たちがやってきたことは間違ってなかったと確かめられたのかなって。
だからフジロックで解散した時は、何も悔いが無かったし、これ以上はやれないなって思えたしね。

僕たちはGOD’S POP RECORDSから吉本興業まで転々としてたけど、ベストアルバムを出したいってなった時は、全部の会社が音源を貸してくれて。
最後の所属は吉本RandCだったのに、ベストアルバムはビクターから出しますよって言ってれて。

PEALOUTではちゃんと良い活動が出来てたんだなって自信があったから、解散した2005年以降も音楽をやれてるってなってるかもしれないですね。

音楽がやれないことに耐えられないと思って、HARISSでライブをしてもらった

-PEALOUTの活動が終わって、どのような心境でしたか?

高橋)覚えているのは、解散したフジロックから帰ってきた翌日も寝られなくて、「あぁ俺の音楽人生終わったな」って思って、これ以上は出来ないだろうなって思って、とにかく寂しかったし、悔いは無かったけど解散したくなかったんだなって。
翌日起きてからは、これから何をしたらいいか分からないし、絶望感でいっぱいでしたよ。

PEALOUTを解散するって分かってた時に、PEALOUT以降も音楽はやりたいって気持ちはあって、そしたらHARISSのメンバーが声を掛けてきて、当時のボーカルがSIDE ONEっていうロカビリーバンドを組んでたから、「ロカビリーの人が俺に声を掛けるって何だろう?」と思ったけど、逆に面白いなと思って。
PEALOUTをやっている時にもリハとかに参加してて、「こんな音楽があるんだ」って感じたりしてました。

今思い出したんだけど、解散に後悔はないんだけど不安はあって、解散してから5日後にHARISSでライブをしてもらったんだ。
音楽がやれないことに耐えられないと思って、HARISSでライブをしてもらった。

ノグチ)僕、フジロックでPEALOUTの解散ライブを見ました。
その後に雑誌で「高橋浩司:ex PEALOUT」って写真を見て、もうPEALOUTじゃないんだってすごく寂しかったです。
PEALOUTの解散ライブは俺の中で、ポールマッカートニーの次に泣いたライブです。
フジロックのレッドマーキーはパンパンですよ!

何がカッコ良かったかって、「ドラムス、高橋浩司」ってメンバー紹介をして、最後の最後、「俺たちがPEALOUTです。覚えて帰ってください」って言ってライブが終わったんですよ。
もう、号泣しちゃって。

高橋)僕自身「(ex.PEALOUT)」って残っちゃうのが耐えられなくて、早く次のバンドを始めないと、その名前が出まわっちゃう。PEALOUTのメンバーも”PEALOUTロス”があったはずで、ロスを感じないように次に動かなきゃって思ってたと思います。

自分でお客さんを増やしていく作業に勝る物ってあるのかなって感じてしまって

高橋)PEALOUTをやってた時に、PENPALS(ペンパルズ)のハヤシくんがソロ活動をしてる時に、ソロ曲で何曲は叩いてほしいって言われて、そこからハヤシくんがソロプロジェクトを続けたいからドラムを叩いてくれないかって誘われて。
PEALOUTが解散してたし、ハヤシくんもソロ活動からREVERSLOWってバンド形態でやりたいっていうのがあったから、ドラム叩くよって。
PEALOUTロスの反動は絶対にあったんだと思う。全部受けちゃうっていう(笑)

ハヤシくんのPENPALSは活動休止中だったこともあって、お互いに長いバンド活動を終わらせてるってシンパシーを感じていて。

それから、REVERSLOWとHARISSを並行してやってたんだけど両方が極端で。
REVERSLOWはメジャーでやることを想定してて「JAPAN COUNTDOWN」に出るようにブッキングをしたり。
PENPALSのハヤシくんが始めたバンドとして、お客さんもそこそこ入るし、ツアーも事務所の車に乗っていくしって。

一方のHARISSは、一から始めてるからCOLTSの人とSIDE-ONEの人と俺がやっているから、新宿LOFTでやって次はclub Doctorでやって、一から始める人がやるような事をやってて。

HARISSのツアーは自分たちで運転したり、頭を下げてまわったりしてた。
ある意味、二重生活をしてたというか、両極端な事をしてた。

あの頃は青かったなって思うし、REVERSLOWでもちゃんとやるべきだったと思うけど、その頃はHARISSの活動の方が美しく感じちゃったというか、自分でお客さんを増やしていく作業に勝る物ってあるのかなって感じてしまって。

REVERSLOWはレコード会社もちゃんとあったし、吉本所属だから吉本制作の番組で使ってもらったりしてて、例えば浜ちゃんがやってた「ジャンクスポーツ」の主題歌に使われてたり、ほんとにメジャーな活動が出来てたんですよ。
でも、それって俺がやりたい事なのかって疑問が出てきて、PEALOUTをやっていた頃の自分とバランスが取れなくなってきちゃって、俺がやっていきたい事はHARISSでやっていることなんじゃないかなって思って。

REVERSLOWが代官山UNITでのワンマンが決まって、ワンマンを最後に抜けました。
メンバーには「どうしても自分の手でバンド活動を動かしたい」って話して抜けることを伝えたんです。UNITまでのツアーをやって、ワンマンが終わった翌日に脱退を発表してもらった。

それで、HARISSに専念したんです。

今思えばどっちも出来たんだろうけど、でもその時は自分の美学に酔ってたなって。
その美学のために、REVERSLOWにはすごく迷惑を掛けた思いがあって。

だから今回やる「50祭」には、自分の中でケジメを付けたいから頭を下げてREVERSLOWに出てもらうことにしました。

ノグチ)そうなんだ!そういうことか。

高橋)ハヤシくんに連絡して「俺が間違ってた」って話して、俺の勝手なんだけどケジメをつけさせてほしいからメンバー3人に頭を下げさせてもらって「お願いですから出演してください」って話して。

REVERSLOWは僕が抜けて、ZEPPET STOREの柳田英輝が入ったんですけど、ライブを1~2本した後に解散したんですよね。
UNITのワンマンが満員になって、いい形になってたんだけど、自分として「よし」としなかったことで、俺が途中で投げ出しちゃって、相当色んな人に迷惑を掛けてしまったと思うんです。
そんなことがずっと頭にあって、いつか自分の中でケジメをつけなきゃダメだと思って。
今回50歳を節目に、REVERSLOWでライブをやらせてもらうっていうのはそういう思いがあって。

「ゼロ」から始めないと100になれないだろうなって思ってました

-これまでの音楽活動でメジャーを捨ててまで続けてきたことのポリシーがあったのでしょうか?

高橋)手応えが無いのは嫌だったなってのはありますね。

ギャラを貰う時に、直接、箱(ライブハウス)の人から貰うと自分の中で重みが違ったというか、やっぱり「10人しか呼んでないんだからギャラはこれだけだよね」って自分でちゃんと分かってると、次はもっと頑張らないとなって思うけど、事務所に所属しちゃうと聞かない自分も悪かったけどあまり分からなかったですし、事務所があるとあまり自分たちで持ち出すことは無かったです。

事務所に所属してなければ、お客さんが入らなかった時に自分たちで持ち出すしかないってリスクの上でやってるかやってないかは大きかったかなと。
そこは自分の中で、きちんとこだわらないといけないことだなって思いましたね。

今もありますけど、自分で「ありがとうございました」ってギャラをもらうことは大事だなって。自分でやれることは自分でやりたいなってすごく思って。
その気持ちは忘れちゃいけない。

-メジャーを辞めた時に収入などが不安定になる事への恐れは無かったですか?

高橋)収入と言うよりは、バンド活動として安定した活動は確かにできました。
だけど、それよりも「ゼロ」に掛けたかったですかね。

「ゼロ」は、もしかしたら100になる可能性があるかな。
「ゼロ」から始めないと100になれないだろうなって思ってました。
HARISSは「ゼロ」から始めた意識はあるから、達成感は全部自分たちで味わえるんですよ。

入ったお金で食べに行くとか、どこに取られることも無く自分たちで稼いだお金はバンドのお財布に入れることが出来て、次にどこに行こうとか、お客さんが入ったし焼肉食べに行こうよとかも出来たし。それで培われる関係性も絶対にあるし。

いま考えてもREVERSLOWではありがたい活動が出来ていたというか、事務所のお金でご飯を食べさせてもらったし、打ち上げさせてもらって、感謝以外無いです。
むしろ、気が付かなくてすみませんでしたって。

今こうして、50歳になっても何か出来るんじゃないかって思えるのは、メジャーを辞めるときも自分の可能性を信じてたんでしょうね。
何か自分の中で出来るかもって信じられるのは、あの時もきっと一緒だったんだと思います。


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