<ドラマー高橋浩司50歳記念>全人生50年を振り返る渾身のロングインタビュー②バンド「PEALOUT」期
「あれ、スタッフやってくれるのかな?」って思ってたら「ドラム叩いてくれませんか?」って電話だった
高橋)近藤くんはレコード会社EMIのディレクターとして働いていて、一緒にやろうとは思ってなかったけど、MOTHERSを「いいバンドだな」とは思ってくれていたみたいです。
近藤くんも会社を辞めて音楽をやりたいって思った時に、ちょうどドラムだけが居なくて、自分のことを思い出して連絡をくれたみたい。
実は以前、近藤くんには「MOTHERSのスタッフをやってくれませんか?」って電話をしたことがあって。
MOTHERSを見に来てくれる男の人って少なかったし、バンドをやってる風な感じだから、こんなスタッフだったらカッコイイなって。断られたんですけど。
そんなことをしてた後の電話だったから「あれ、スタッフやってくれるのかな?」って思ってたら「ドラム叩いてくれませんか?」って電話だった。
自分の中で限界を感じてた時に声を掛けてもらったから、ちょっとやってみようかなって。
PEALOUTのギターを担当する岡崎善郎くんは以前にBEYONDS(ビヨンズ)ってバンドをやってて、MOTHERSとも対バンしたことがあって、BEYONDSは人気があったから「メンバーはBEYONDSの人なんだ」って驚いて、これは面白くなりそうだなって思って、PEALOUTをやり始めた感じです。
PEALOUTがだんだん忙しくなってきたからSOUL SONIC FORCEを抜けてPEALOUTに専念する形になりました。PEALOUTまでは、そんな感じの流れですね。
-PEALOUTを始めたのはいつ頃でしたか?
高橋)1994年の夏ですね。
-私が初めてPEALOUTのライブを観たのが、95年か96年頃ですかね。私が力塾(インディーズレーベル。現在は解散)に入社した初日に他の社員から「今日ライブがあるからみんなで行くよ」って誘われて行ったのが、旧LOFTでのPEALOUTのライブだったんですよ。
それで衝撃を受けてしまって
高橋)そうなんですね。94年にPEALOUTを始めて、95年の1年間はかなりライブをやって当時は英語で歌って、まわりも英語で歌ってるバンドが多かったし。
-PEALOUTは他のバンドとは違うライブの緊迫感というか、すごいものを見たなっていうのがありましたね。
いまこうやってお話させていただいてますが、当時はおいそれとお話が出来ないくらいすごいカリスマ性というか。
高橋)いまの言葉をDQSのメンバーに言ってもらっていいですか?(笑)
いま、誰も感じてないと思うんで。
当時を思い出すと、30歳直前だったので後がないっていうのもあったし、近藤くんは僕の2つ上だからその時点で30歳だったし、20代前半で出会った時の熱量とは違うから「このバンドでなんとかしなきゃ」「自分の人生どうする?」って切羽詰まった感じはすごくあったかもしれない。
-その後インディーズでのリリースがありましたね
高橋)力塾のGOD’S POP RECORDSというレーベルから初めて7インチを出せたりとか、あれはひとつのターニングポイントでしたね。
当時、僕がDJに興味があって、ロンドンナイトによく行ってたんですね。
「ああいうイベントをやれたらいいな」ってずっと思ってて、たしか張り紙か何かで「DJイベントをやりませんか?」って書いてあるのを見て連絡をしたんです。
そうしたらもう一人同様に連絡をした人がいたみたいで、その人が村くんという、後のclub snoozerのDJなんですけど。
初対面のそのイベントで挨拶をして「このイベントはひどいね」なんて話してて。
ターンテーブルがスイッチを押すとアームがウィーンって動くやつだったんですよ。
だから曲をつなぐにもウィーンを計算してつながなきゃいけないっていう、信じられないDJイベントで「こんなの無いよね」って話したのを覚えてます。
でもそれでひどい目にあったからこそ仲良くなったのかも。
その村くんがGOD’S POP RECORDSのプロデューサーの大久保さんと知り合って、ギターバンドのオムニバスを作る時に村くんも関わることになって。
たしか村くんが大久保さんに推薦してくれて、GOD’S POP RECORDSからレコードを出すことになったんです。7分の曲をシングルで出しました。
それ以来、色んなところでやり易くなりましたね。
DJイベントきっかけだったから、外に出ていくもんだなって感じています。
それからそのレコードをCD化してもらって、K.O.G.A. RECORDS のオムニバスに入れてもらったりとか、英語の曲をやっていたので外タレの前座をやらせてもらったり、うまく歯車が回り始めました。
「こんなバンドが聞きたかった!」なんて書いて視聴機の1番にPEALOUT入れて
高橋)そのうちMIDI Creativeの方から「うちでアルバムを出しませんか?」って声を掛けてもらって、それで出したのが96年。
それでMIDI Creativeから2枚リリースしました。
当時はCDが売れてた時代だったんですよ。
僕はその頃、タワーレコード池袋店でインディーズのバイヤーをやっていたので、自分のCDを入荷できたんです。
当時は入荷数もバイヤーに任せてくれてたので「PEALOUT、100枚」って。
(一同爆笑)
高橋)だけど当時はインディーズブームだったから、100枚取っても全然問題無かったんですよ。
覚えているのが、ラヴ・タンバリンズってバンドが500枚発注してたんだけど、1週間持たずして売れてたから。くるりもそうだよね。
森)まぁ、そうだったね。
高橋)PEALOUTが英語でやってたから渋谷系の末端みたいな感じで括られたので、雑誌なんかでも取り上げてもらったりしてて。振り返れば、いい時代だったなって。
今じゃ絶対に500枚なんて発注できないもんね。
昔は普通に発注出来てたし、自分でコメントを書けたらから「こんなバンドが聞きたかった!」なんて書いて視聴機の1番にPEALOUT入れて。
(一同爆笑)
高橋)当時はインターネットなんて無いから、バイヤーのコメントが頼りで、どのCDも真剣にコメントを書いてましたよ。
あの頃のタワーレコードってバンドをやってるスタッフに親切だったんですよね。
当時社長だったキース・カフーンさんは「バンドをやっている人は宝だ」って発想で、スタッフがバンドをやっていると社長命令で全店にFAXで「何店の誰誰がこういうバンドをやってるから必ず在庫するように」って通達してくれてたんです。ちゃんと「キース・カフーン」ってサイン入りのやつなんです。
PEALOUTで出した時も「池袋店の高橋浩司がPEALOUTでファーストアルバムを出すから必ず全店で置くように。デイヴ・グロールも元々はタワーレコードのスタッフだった」って書いてくれて。
その紙は今でも大事に持ってます。
なので、タワレコ全店で推してもらえて。
売れてるバンドっぽくなれてたんです(笑)
「メジャーでやってみないか」声が掛かって
高橋)1枚目「HERE, NOT SOMEWHERE」、2枚目「one」まではMIDI Creativeから出せて、いい形で活動出来てました。
その後にVAPから「メジャーでやってみないか」声が掛かって。
いまでこそ、インディーズとかメジャーって区別はあまりないけど、当時は「インディーズからメジャーだ!」って。
VAPに移ってから4曲のマキシシングル「APRIL PASSENGER」を出して、アルバムもVAPで出そうねってなったんですけど、後にいろんな問題が発生して。
昔は日本でレコーディングするより海外の方が遥かに安かったから、ニューヨークで1ヵ月レコーディングをしようってなって。
日本で1ヵ月レコーディングをするよりは全然安いのでVAPにも迷惑が掛からないしって考えて、スケジュールを全部決めていざレコーディングって時に、VAPが諸事情で降りたんですよね。
一同)えー!
高橋)事は動き始めちゃったし、このお金はどこが出すんだってなって。
でもその時には事務所にお世話になってたのが功を奏して、なんとか交渉してもらって、アルバムを作ってからポニーキャニオンが買ってくれたんです。
一同)うわー。すげー!
高橋)今じゃ考えられないけど、バンドにお金を使ってもらえるいい時代だったなー。
「レコーディングは誰とやる?」って聞かれて、当時はお金はいっぱい使えるって思ってたから、アメリカのロックバンド「WEEZER」が出した2ndアルバム「ピンカートン」のスタッフとやりたいって言ったら出来ることになって。
今だったら絶対に言わないんだけど、当時は何も知らないから。
でもそういったスタッフ陣を用意してくれる時代だし、自分たちが英語でやってたこともあって実現したんです。
あの時、ポニーキャニオンで「だんご3兄弟」がめちゃくちゃヒットしててレコード会社にお金が潤沢にあったので、2枚目もニューヨークでやろうって事に。
なので「だんご3兄弟」には妙なありがとう感がある。
(一同爆笑)
バンドとして一歩上を行くには日本語をやるしかないんじゃないかって
高橋)お金を掛けてもらったんですけど全然売れなくて、1枚目も2枚目も。
2枚出したところでポニーキャニオンから厳しいって言われて。
今でこそ、音楽の選択肢はたくさんあるけど、自分たちは英語でやってたり、メジャーでやるけどアンチメジャーでやりたいみたいなことをしてて、アンチメジャーでやるならインディーズでやろうよって話だし、その点でPEALOUTは難しかったんだろうなって。
徹底的に硬派に行くって訳でも無かったし、スペースシャワーの番組に出てメジャー感ある活動をしたいなって思ったり、かといってステージでは笑いませんみたいなこともしてたから、レコード会社からしたら売り方が難しかったと思う。
エレファントカシマシがポニーキャニオンに移ってくるから、押し出されるようにして。確かに成果が出なかったのが一番の問題なんですけど。
でも、それでいいと思ってたし、音楽性を変える必要も無いよねって思ってたし、そしたら次にビクターがやってくれることになって。
そのタイミングで初めて近藤くんが「日本語でやってみたい」って話をしたんですよ。
元々キャニオン時代の2枚目の時に日本語の曲を1曲だけ入れて、その時にアメリカのスタッフから「なんで日本語でやらないんだ!」「日本語の方が全然良いぞ」って言われて。
「言葉が分からないけど日本語の方が伝わる」って言われて、それはメンバーの中でも残ってて、近藤くんは歌詞を書いてる人だから自分の中では来るものがあったんじゃないかな。
もう一人のメンバーの岡崎くんは「日本語でやるんだったらバンドを辞める」って言って、バンドとしても葛藤はありましたよ。
でも、バンドとして一歩上を行くには日本語をやるしかないんじゃないかって。
上田健司さんが次のプロデュースをすることが決まってて「俺も日本語でやった方が良いと思う。俺がもう一段階上に持って行ってやる」って言ってくれて、プロデュースしてもらったのが「爆裂世界 ~世界に追い越されても~」っていうシングル。
ギターバンドなのに、ビクターに移籍後のシングルは、ピアノとベースとドラムでやってて、日本語だしギターが入っていないしで、自分たちも賭けに出たんですよ。ギタリストがベース弾いてましたからね。でもそれをやったお陰で上のステージに行かせてもらったので、結果的には良かったです。実際にそうやったことで離れてしまったお客さんがすごくいたと思うんですけど、でもそれ以上に大きいものを得られたと思いますね。
上田さんとは、その後何作か一緒に作品を作らせてもらったんですけど、未だに音楽で尊敬しているのは上田健司さんただ一人なんですよ。
本人にも言っているんですけど、唯一師匠と呼んでいるのは「上田健司さん」で、色んな事を叩きこんでもらいました。
完全に日本語にシフトチェンジして、ピアノもやるバンドになってってやってたんですけど、思うように売れなかったので、ビクターもさすがにそこまで優しくなかったというか、自分たちでも自分らが置かれていた状況を分かっているから、「ビクターではこれで終わりです」って言われてもやりたいことをやらせてくれたし、逆に感謝でしかなかったので、メンバー3人で「ありがとうございました」って。
1ページ:バンド「BASIC」「image」「MOTHERS」「SOUL SONIC FORCE」期
2ページ:バンド「PEALOUT」期
3ページ:バンド「REVERSLOW」「HARISS」期
4ページ:現在、そして50歳を迎えるこれからについて
5ページ:いまさらだけど、高橋浩司に聞きたいことDQSメンバーが聞いてみた