<岸谷五朗・寺脇康文インタビュー>岸谷「やってきたことは無駄ではなかった。だから今年も開催出来る、開催する、しなきゃいけない、って繋がっていく感じかな。」岸谷五朗と寺脇康文が考えるAct Against AIDS(アクト・アゲインスト・エイズ)「THE VARIETY」(ザ・バラエティー)

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岸谷五朗の呼びかけで1993年からスタートしたAct Against AIDS(アクト・アゲインスト・エイズ:AAA)「THE VARIETY(ザ・バラエティー)」。
今年も日本武道館にて26回目の開催が決定している。


岸谷五朗と、一緒に参加している寺脇康文のお二人に、インタビューを慣行。
これまであまり話されていなかった、第一回当時の思いや、AAAを立ち上げたキッカケとなった岸谷五朗が放送していたラジオ番組「岸谷五朗の東京RADIO CLUB」についてなど、昔を振り返りつつ、今後の展開などについて伺いました。

Act Against AIDS「THE VARIETY」とは

Act Against AIDS2016「THE VARIETY 24」より
1993年12月1日に国立代々木競技場第一体育館にて開催したエイズチャリティーイベント【Act Against AIDS ‘93. GOROKISHITANI PRESENTS “THE VARIETY” 】

出演したのは、岸谷五朗(SET) 寺脇康文(SET) 宇都宮隆 葛城哲哉 木根尚登 久保こーじ 劇団スーパーエキセントリックシアター 小室哲哉 鮫島秀樹(ハウンド・ドッグ) General Central Station D.S.Q To Be Continued Toshi (X) ナイトホークス 仲井戸麗市 バカルディー 萩原聖人 BAKUFU-SLUMP 橋本章司(ハウンド・ドッグ) フェンス・オブ・ディフェンス BLUE BOY ホンジャマカ 三上博史 山田幸伸(SET)など。

アクト・アゲインスト・エイズ立ち上げのきっかけ

1990年10月より放送を開始したTBSラジオ「岸谷五朗の東京RADIO CLUB」に「実は私、エイズなんです」と15歳の少女から手紙が届く。
当時は「くしゃみをしただけで感染する」「握手をしただけでエイズになる」などといった間違った情報ばかりが蔓延しており、かなり偏見があった時代。
手紙を送った少女も絶望し、手首を切って自殺を図ろうとしたことを綴った。
しかしその少女の両親や友達が支えたことで生きる喜びを実感し「もう死のうとは考えたりしない」と手紙を〆ていた。
手紙を受け取った岸谷五朗さんは「まずは正しい知識を知ってもらう必要がある」とAct Against AIDSを発起。1993年より活動を開始した。

岸谷五朗が主催した代々木第一体育館をはじめ、桑田佳祐が主催した日本武道館ほか、Bunkamuraオーチャードホール、名古屋レインボーホール、大阪城ホール、新潟フェイズなど全国各地で同時に開催された。

インタビュアープロフィール

余談であるが、インタビューの内容に関わってしまったため、インタビュアーのプロフィールを事前にお伝えさせていただく。

高校受験の勉強をしながらTBSラジオで放送していた「岸谷五朗の東京RADIO CLUB(通称:レディクラ)」を初回から拝聴(最終回の1994年9月30日まで聞き続ける)。
当時は、まだ寺脇さんと共に三宅裕司さん主宰の劇団SETに所属し、今のように有名では無かったうえインターネットも普及しておらず、岸谷さんの顔を拝見することは難しかった時代。
ラジオ番組の中の「一通の手紙」というリスナーからの相談コーナーでエイズにかかってしまった少女の手紙を読み、AAAを立ち上げ、イベントを開催。
この時、インタビュアー自身はエイズについてほとんど認識せず、岸谷さんに会いたいとの理由から初回のイベントに参加した。
以降、昨年まで毎回参加をしている。

なお、インタビューの前にインタビュアーのプロフィールを伝えると、インタビュー中は当時のパーソナリティとリスナーの関係に戻ったようにお二人からは話していただき、リスナーに語る口調で話されているのはご了承いただきたい。

岸谷五朗・寺脇康文インタビュー

これまでに開催されたAAAの経歴【Act Against AIDS「THE VARIETY」とは】を見て、、、

寺脇)横浜アリーナもやったよね、放送して。

岸谷)アリーナでやったね。
3回目にアリーナでやったんだなー。

寺脇)これを挟んでの、渋谷ON AIR WESTに(苦笑)
なんで行ったんだろう?こんな小っちゃいところに。

インタビュアー)あの当時参加していましたが、不思議に思いましたよ。
国立代々木競技場第一体育館、横浜アリーナと徐々に拡大していって、急に小さい箱での開催でしたから。

岸谷)あのね、小さい所でもやろうと思ったのよ。(開催するのは)大きい所だけじゃないよって。
そしたら、全然寄付金が足りなかったの。
それで武道館に移ったんだ。

(資料を眺めつつ)こうやって見ると、長くやってるね。(と、しみじみ)

寺脇)これはすごい資料だな!

岸谷)すごい資料だね。

寺脇)これだけ全員出た人を書いてないよね。

岸谷)「野沢“毛ガニ”秀行」まで書いてあるよ(笑)

寺脇)え!あんな人まで?(笑)
「福島カツシゲ」まで書いてあるよ。

岸谷)よく名前わかったね(笑)

五朗さんが放送していたレディクラに少女から「実は私、エイズなんです」と手紙が届いたのをキッカケにAAAが立ち上がったと思うのですが、1回目のタイトルに【GORO KISHITANI PRESENTS “THE VARIETY” 】と書かれてありました。当初1回目を行う際に、翌年も開催する想定はされていたのでしょうか?

岸谷)何も考えてなかったかもしれない。
とにかく、エイズが原因で世界中の人々がバタバタ死んでいった時代で。
影響力の持つアーティストも死んでいって、キース・ヘリングもそうなんだけど。
一番最初のAAAのロゴはキース・ヘリングの絵を使ったのよ。

(インタビュアーが初回のAAAで発売していた実物の缶バッチを手渡す)
岸谷)すごい!すごい!これこれ、缶バッチ!
欲しいー、これー!

余談だけど、AAAを立ち上げた時にキース・ヘリングの財団が、AAAのシンボルとしてキースの絵を使わせてもらう事を許可してくれたのね。

だから俺はこの感謝の気持ちで、キース・ヘリングのミュージカル『ラディアント・ベイビー~キース・ヘリングの生涯~』を日本版で演出して作ったの。
あれはブロードウェイミュージカルだからね。

そしたら、作家や関係者がみんな日本に来て「私たちが作りたかったラディアント・ベイビーはこれなんです」ってメチャクチャ褒められたのよ、向こうの演出に。

寺脇)へぇ~、そうなんだ。


ミュージカル『ラディアント・ベイビー~キース・ヘリングの生涯~』
2016年6月6日~22日
劇場:シアタークリエ
脚本・歌詞:スチュアート・ロス
音楽・歌詞:デボラ・バーシャ
歌詞:アイラ・ガスマン
演出:岸谷五朗
出演:柿澤勇人 平間壮一 知念里奈 松下洸平
Spi Miz 大村俊介(SHUN) 汐美真帆 エリアンナ
香取新一 加藤真央 MARU 戸室政勝 おごせいくこ 他


岸谷)そう、だからね、とにかく必死で、まず投稿してくれた彼女のこともそうで、この病気の一番怖い事は、病気で死ぬことだけではなくて、人間が一番大切にしている"絆"を壊す病気であること。
差別が生まれ、今まで親友だったやつが離れていったってことがいっぱいあったんだよね。

人間として生まれてきて一番大切な部分を壊す病気を、逆に人間の絆でこの病気を何とかしなければいけない。
それでこれだけの人数を集めた“THE VARIETY”を作ったんだ。

あとは、国立代々木競技場第一体育館で開催する前にシンポジウムに参加したんだけど、その時は全然お客さんが集まらなくて。
これじゃ啓蒙にも啓発にもならないなって。
お客さんを集めるには、若い人たちに影響力を持っているアーティストに参加してもらって、“何のために集まったか分からないけど、行ってみたら私のチケットがボランティア活動になっていたんだ"っていうやり方が良いなと。

それであえてエイズという当時深刻な病気だったんだけど、“THE VARIETY”って名前にしたのね。
異業種競演って。

だからたぶん、始めたその時はまだ1回きりか長くやろうかなとか何も考えずに、とにかく代々木競技場第一体育館をやりきって、その後これは続けなければダメだなって思ったかもしれない。インタビュアー)当時自分はまだ高校生だったので、エイズについて知識は無く、エイズそのものもほとんど知りませんでした。
ですので、自分の中では「レディクラのイベント」との位置づけで参加してました。

岸谷)レディクラの大きいイベントだったよね。当時はね。

「エイズ」という物を初めて知ったのはレディクラであり、AAAでした。
五朗さん自身、エイズについての啓蒙者であると認識はされてますか?

岸谷)もちろん。
大きく自分の責任感として持っているって訳では無くて、僕らのやっている事自体が大きい事ではなく、僕らは本当に一角だし、全然小さい事。
自分の意識の中では、啓蒙啓発を一生懸命やってきたから、今日本ってエイズに対する知識がすごくある国になったって、思おうとしてる。
やってきたことは無駄ではなかった。
だから今年も開催出来る、開催する、しなきゃいけない、って繋がっていく感じかな。

ここで岸谷さんから逆質問。
岸谷)当時、高校生だった時にエイズの感染ルートが性交渉だったり、ゲイのカップルからとかって言われてたじゃない。
その頃って、高校生じゃエイズのことは言い難かったでしょ?

インタビュアー)SEXの事に触れることも無いですし、親の前では話すことは無かったですね。

岸谷)そうだよね。

インタビュアー)当時高校生の時にAAAの1回目が始まったんですけど、実家から上京して参加するにも、親には「アクト・アゲインスト・エイズ」と「エイズ」のワードは出せず、「レディクラのイベントに参加する」と伝えて参加してました。

岸谷)なるほど。
やっぱりそれだけ、壁のある事だったよね。
特に未成年のレディクラリスナーにとってはね。

寺脇)癌とかと違って、エイズって悪いイメージが付随するものだったよね。

インタビュアー)当時、エイズは悪い事をしたからなってしまったって感じでしたね。

寺脇)そういうイメージだったよね。そうなんだよね。

パトリック・ボンマリートさんもラジオにゲスト出演されて、広報活動を行われていましたね。
13年に亡くなられてしまいましたが、サンプラザ中野くんと一緒にステージに立って「手を繋いでも大丈夫」「キスをしても平気」とその姿を見せてくれていました。
実際に目の前で見せてくれたことに、とてもインパクトがあった事を覚えています。

岸谷)そうだったね。パトリック、亡くなっちゃったね。


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